2015-08-18

「紫陽花を浮かべて平和水の星」

8月18日の平和の句

稲葉 千尋さん(69) 三重県四日市市

いとうせいこう  スケールの大きなビジョン。同時にテーブルの小皿も目に浮かんでくる。平和をつなぐ水であってほしい。そこに浮かぶ私たち。

東京新聞より

紫陽花を浮かべた水の鉢。水面の輝きと紫陽花が織りなす空間に青い地球のイメージが重なる。そんな美しい星は目の前の穏やかな水鉢のように平和に違いない。そんな星に私たちは暮らす。

2015-08-18 | Posted in 日記No Comments » 

 

見えて来た安倍政権の限界。

 4月23日付の本ブログに「安倍政権の可能性」について書いた。
 それは、
「歴史修正主義のごり押しでは世界の中で日本は孤立するのは目に見えている。どんなに国内保守派が騒いでも国際的には理解は得られない」
「国の舵をにぎる最高責任者になれば、より現実的な路線へ舵を切り替えるしかない」
「これまで村山談話、河野談話など左翼やリベラルな政治家のそれは国内保守層(特に安倍総理のような政治家)から総批判を浴び、無意味な論争が延々と続いてきた」
「しかし今回(70年談話)は誰もが納得するもっとも右の歴史修正主義者である総理のそれである。安倍首相でさえ、そこまでしかできなかった、という現実が今後の日本の姿勢として定着する。安倍首相ができる可能性はそこにある」
といった内容だった。
 あえて「可能性」としたのは、無茶苦茶な安倍政権だがこの政権を後の人が歴史的に振り返るときのプラスとして評価するのは、このことぐらいだという意味だったが、予想はあたった。
 なるべく間接的な表現を使うなど苦慮している姿勢がありありだが、あれほど否定していた村山談話を引き継ぐ談話になってしまった。忸怩たる思いの何ものでもないだろうが、これは仕方がないこと。東アジアや国際社会の中で生きて行く以上どうあがいてもしようがないのだ。歴史修正主義の皆々も落胆の思いだろうが、おそらく面と向かって批判することはできないだろう。これからも国内でぶつぶつ言い続けるだろうが所詮それまでのこと。いずれ消えいく存在と見ていて間違いない。意気軒昂に安倍政権を誕生させたは良いが、結局そのことが自らの思想が社会的に葬られる時期を早めることになってしまった。
 しかしあきらめが悪すぎるとしか言いようがない。意に添わない談話だから15日の追悼式(村山談話はそうだった)ではなく14日に発表したのだろう。子等に謝らせ続けてはならないなどと頓珍漢なこともあえて言及する。この人は何もわかっていない。国民が謝り続ける責任はない。子どもらが謝り続ける責任などない。国際社会もそんなことは求めていはいない。個人の思想は自由である。問題は国の指導者や政治家の馬鹿な発言や行動なのだ。国の責任者等の場合は国家責任となる。だから国際社会は批判する。まるで子どもと自らの職責を同等とでも思っているかのようなだ。この人や取り巻きは何も理解していないことが、この一文をだけで見透かされてしまう。本当に情けない面々なのだ。

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