日記

耐えられない発言の軽さ。

東京にいると多分気づかない。それは騒音の凄まじさ。信号待ちしていると驚きの大音量が近づいている。何だと思いきや、人気グループの写真を全身にまとった目映いばかりにイルミネーションしたトラック。新曲のPRだった。興味のないわたしのような者にとっては「やっかいもの」でしかないが、どう考えても「テロと同じだ」という思いはまったく浮かんでこない。

同じように右翼の街宣カーも、暴走族の爆音も「うるさいな〜」とは思うが、「テロと一緒だ」とは誰も言わないと思う。

今も国会周辺の抗議の声や太鼓の音が会館の部屋に聞こえてくる。しかし先の例とは比較にならぬ程静かで騒音というのもはばかられるくらいだ。違うのは音に明確な意思があること。誰に対して何を表現しているかが明確であることだ。抗議の声や太鼓の音が発せられる相手、おそらく政府や国会議員、とくに与党の皆々だろうが、これらの当事者にとっては音量以上に神経を逆撫でさせられるに違いない。

石破自民党幹事長が自らのブログに、国会周辺の抗議行動をテロと同じといった趣旨の意見を書き込んだ。おそらく石破さんにはわたしたちが感じるよりも、遥かに大きい音に聞こえていたのではないか。発信者の明確な抗議の意志が音以上の鋭さとなって石破さんに刺さりつづけていたに違いない。彼に取っては本当にテロと一緒の感覚だった。だから思わず、そう表現してしまった。以外と素直な方かもしれないが、権利意識、感覚の低さを露呈してしまった。政治家の耐えられない発言の軽さである。

「ナチに学べばいい」と言った麻生財務大臣。「慰安婦は必要だった。もっと風俗を使うべき」と言った橋本市長。政治家の耐えられない発言の軽さが今年も繰り返された。

安倍首相はアメリカのハドソン研究所でのスピーチで、「私を右翼の軍国主義者と呼びたかったら呼べばいい」と言い放った。首相にはその発言の重さが感覚として理解できないのであろう。彼は自分自身がほかの誰かから右翼の軍国主義者と思われているであろうことを前提に表現している。そう思われること自体が恥ずべきことのはずだが、彼の感覚の中にある「右翼の軍国主義者」のイメージは多分一般のそれとは違う。もっと良いイメージなのだ。育った環境がそうさせた。

安倍首相の祖父、岸信介の反動的・戦前復古的な姿勢への国民的拒否感こそが、60年安保闘争の政治的敵対性を高めた。1960年5月20日の日米安保条約の強行採決から一挙に運動は広がりを見せる。強行採決が「民主主義の破壊」と国民に広く受け止められたからである。しかし6月19日の条約自然成立の1ヶ月後に岸内閣が総辞職すると、運動は急速に収束する。その結果、同年11月に行われた総選挙では、安保闘争の流れで革新政権が樹立されるのではという期待に真っ向から反して自由民主党が勝利する。岸やその周辺にいた戦前復古派はこの総辞職を持って力を失った。変わって台頭したのが池田勇人、大平正芳、宮澤喜一らのいわゆる「経済成長重視派」だった。(現代思想12月「2013年の民主主義」木下ちがや)より

1960_Protests_against_the_United_States-Japan_Security_Treaty_07

その後の流れが高度経済成長に繋がり、バブル崩壊を経て、つい最近の自民党政治までつながるのは承知のとおりである。冷戦構造の中で生まれた戦後政治の流れは、安倍首相の祖父を政治的に葬り去り、戦前復古につながる価値観よりも成長を優先させて今の日本をつくりあげる。

しかし、戦後は日本だけでなく世界も変えた。仮にドイツのメルケル首相が「私をナチスと呼びたければ呼べばいい」と言ったらどうであろうか。おそらく政治生命を失うだろう。近隣国にとって「ナチス」とはそれほどの言葉ではないだろうか。安倍首相のさきの発言は同じ意味合いを持つ。祖父の意識を自らの意識の奥底に持つ安倍首相の「右翼の軍国主義者」のイメージは推察できる。しかし、我が国の最高権力者のなんと耐えられない発言の軽さであろうか。

わたしは安倍首相に代表される同思想の人たちを、「遅れてきた復古主義者」と呼んでいる。約半世紀の時を経て亡霊のごとく蘇った面々。しかし彼らの想像以上に時代は変わっている。良いも悪いもない。世界は戦前より遥かに民主主義が浸透し、人権思想が高まり、リベラル的価値観が広がっている。日本の政治だけが、復古主義的に戦前思想に戻ることは不可能だ。

国会周辺は60年安保のような雰囲気だ。デモ参加者が埋め尽くしているわけではない。しかし、特定秘密保護法案の危険性を感覚として感じる人々がうねりをつくりつつある。広がりつつある。約半世紀前、岸首相が行った強行採決が、「民主主義の破壊」とされ、運動が広がり、首相の座を追われる。国民は戦前復古を許さなかった。孫の安倍首相が一両日中に行う同じ蛮行は、きっとこの時代も「民主主義の破壊」と非難される。

昔よりも時間がかかるかもしれないが、これからわき起こるであろう運動が、きっといつの時代か、あの時が新しい政治の萌芽だったと評価される時がくる。耐えられないほど軽い発言を繰り返す政治家が、長く居座れるほど日本の政治は甘くない。国民は甘くない。きっと甘くない。

2013-12-03 | Posted in 日記No Comments » 
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