2013-02-20

「ぜいたくな時間に出会う」とは。

今日、愛媛の清家くんと児玉くんが訪ねて来てくれた。うれしいかぎりだ。    清家くんは190センチもあろうかと思われるおお男で、昨年、南予の市町村をまわったときに案内をしてくれた。会ったのはそのときが初めてだったし、1日というわずかな時間でもあったが、気が置けない気持ちにさせてくれる雰囲気を持っていた。

児玉くんは清家くんの同僚で、一緒に訪ねてくれたのだった。          椅子に座りつつ、「これ、お土産です」。と体にまったく似合わない、小さな箱をくれた。

二人が国会見学に行っている間に、お土産を開けてみる。           「山田屋まんじゅう、創業慶応三年」とある。二つ折りの栞には、「ぜいたくな時間に出会う」と題したコラムニスト天野祐吉さんの小文がのっていた。普通はほうっておくのだが、なぜか何となく、しかも声に出して読んでみる。

うまいと感心する。くどくなく、それでいて情景や味までもがうかがえる味わい深い文章だった。すぐにでも、そこにあるまんじゅう食べてみたくなる。

「南予の卯之町には、江戸時代末期の家並みがひっそりと遺っている。・・・十数軒の家並みである。が、空間はこじんまりした家並みだが、そこには、たっぷりと時間がつまっていて・・・そのまんじゅうは、ひとくちで食べてしまえるような小さな形(なり)をしていたが、その小さな形のなかには、家並みと同じようにたっぷり時間がつまっていて、口に入れてそっと噛むと、その時間が口のなかいっぱいに、ひろがっていく・・・このまんじゅうを黙々とつくりつづてきた人たちの時間が、ぎっしりつまっている感じがしたのだ。・・・まんじゅうのなかにはそんな豊かな時間が息づいている。たぶん本当のぜいたくというのは、こんなさりげないところに、ひっそり隠れているものなんだろう。」

一つとって、ていねいにくるまれた包み紙をほどけば、本当に小さな形(なり)のまんじゅうが出てきた。                            ひとくち。なるほど天野さんの表現したことが、くちのなかに広がった。     まんじゅうを食べるというわずかな時間と行為だが、一遍の文がその時間と行為を何倍にもふくらませ、「ぜいたくな時間に出会う」という表現をぴたりとはまりこませてしまう。

日本語をあつかう日本人の日本的感覚表現にあらためておどろいていると、国会見学から清家くんたちが帰ってきた。

「これほんと美味しいね」と言うと、                    「そうでしょう」と自慢げな「どや顔」がかえってきた。            故郷南予を思う誇らしげな顔だった。

こんなひとときも「ぜいたくな時間との出会い」だな。部屋を出て行く二人の背中を見送りつつ、そう思った。

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2013-02-20 | Posted in 日記No Comments »