2012-12

寛容の中道

「サンクチュアリ」とは赤松元農林水産大臣を代表とする民主党の政策グループだ。今夏の民主党代表選挙で代表の赤松さんが立候補した頃から、(ほとんど命令で)僕は事務局次長を勤めている。メンバーは、幹事長の輿石さんや今度代表になった海江田さんなど20人ほど。以前はもっと多かった。逢坂さんや山花さんなど錚々たるメンバーが選挙で敗北、戻ることができなかった。残念でしかたがない。

マスコミはこのグループを「旧社会党グループ」と紹介することが多い。この表現がメンバーにすこぶる評判が悪い。確かに赤松代表等労組系もいるが、そうでない人も多い。実際にメンバーの考え方も政策方針も「リベラル」である。前回の代表選でも、マスコミは4人の候補者の中で赤松さんただ一人をリベラルとして紹介ししていた。事実、演説原稿も「民主リベラルの結集」という表現を使った。
リベラルは「自由主義」とも訳されるが、福祉国家的な新しい自由主義を意味する。しかし日本では、この「リベラル」や「社会民主主義」という言葉が少々矮小化し、少々「左」がかってイメージされている。55年体制下、野党第一党である社会党は、実現不可能な社会主義革命を掲げ、労働組合から支持を引き受ける「革新政党」として存続価値を見つけ、変えることはなかった。一方で自民党は、保守層だけではなく、社会党では抱えきらない資本主義や自由主義的価値観、ひいてはリベラルをも内包した政党となった。これらのことが日本でのリベラルや社会民主主義のイメージに影響していると思う。本質は何も変わらぬままに、名前だけ社会民主主義的名称に変更した社会党=社会民主党の存在も大きい。

さて今回の代表選挙。選挙前の集会で海江田さんは、これからの民主党が進むべき方向性を「寛容な中道」と表現した。同集会に参加した細野さんも表現は違うが「中道」というイメージを強調した。ざっくり言うと、右でも左でもなく、多様な価値観に寛容である政党ということになろう。寄って立つ国民は普通の国民=生活者や市民ということになる。
保守色を強め右に振れた自民党が圧勝。さらに急進的な維新の会も50を超える議席を確保した。もっと新自由主義路線をと主張するみんなの党も健在である。奇しくも各政党が右色を強めたことで、日本でも「リベラル」の思想が確立するかもしれない。表現は日本的に「寛容な中道」でもいいではないか。思想的に何でも受け入れる曖昧模糊の民である私たち日本人が、世界では当たり前の「リベラル政党」の必要性を強く感じるであろうこの時こそ、我が民主党がもう一度、今度はしっかりと成熟した政党として成長するチャンスなのだと確信的に強く思う。

代表選挙が終わり会場を出て空を見上げた。様々な青を混ぜ合わせたような清々しい、まさにリベラルブルーが広がっていた。

そう言えばこの代表選からいつまにか事務局長にさせられていた(_ _。)・・・

 

 

2012-12-26 | Posted in 日記No Comments » 

 

日記163/代表選終了

90票対54票で海江田候補が代表に選出されました。総勢145名の投票者数は最高時の半分以下。あっと言う間の投票でした。

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2012-12-25 | Posted in 日記No Comments » 

 

日記162/やはりくじ運悪し

今日はいよいよ代表選挙です。年に2度も代表選をしなくて良いものを、政権運営のまずさからクリスマス時期に完全にぶつかった選挙となりました。例によってまた選挙の事務にはまってしまいました。

今朝は9時から受付の立候補届出に行ってきました。海江田陣営の僕らが先に到着し、その後、馬淵さんの陣営代表の菊田さん、大西さんの両衆議院議員が来られました。9時前に複数の立候補予定者が来た場合は、くじ引きで受付順を決めます。ほんとくじ運の悪い僕です。何となく一番を引きたいと思うものです。

缶の中に赤鉛筆が10本入っています。僕が引いたのは9番、あちらが8番。よりによって連番一つ違いで2番目の受付になってしまいました。やっぱり「くじ運悪し師走かな」です。

2012-12-25 | Posted in 日記No Comments » 

 

日記161/厳しい現実

突然の解散から1ヶ月余り。国会の様相は一変しました。衆議院の会館にいくと慌ただしく引っ越しが始まっています。エレベーターの部屋番号一覧はすでに空欄になっているところが多くなっています。そこは既に退出が完了した部屋です。落選すればすぐに退出しなければなりません。厳しい現実が目の前で動いています。参議院の方にも影響があります。離党して別の党から総選挙に出馬し落選した人や新党に移って当選した人など、悲喜こもごも。私の議員会館の隣の部屋も宿舎の隣の部屋も主が居なくなりました。空室になったそれぞれの部屋。しばらくすると今度は賑やかに入居が始まり、来年の通常国会が始まる頃には、またこれまで通りの永田町が始まっていることでしょう。

2012-12-22 | Posted in 日記No Comments » 

 

諦めた方が負け。

久しぶりに東京に戻りました。大変な負け方をしました。それなりの予想はしていましたが、まさか60議席に届かないとは驚きです。これだけ負ければ民主党の足腰は相当弱まります。今夏改選の参議院議員は2007年当選組です。29ある1人区の選挙区のうち23で勝利、複数区でほとんど2人が当選するという民主党大勝利の選挙。その再選なので現有議席を確保することは相当厳しい。返す返すも2010年参議院選挙での敗北が痛いのです。このまま我国の政党政治が政権交代のない政党政治に戻るか否かは、民主党の再生にかかっていますが、再び政権を担える政党にまで力を蓄えるには最低でも、これから数回の総選挙が必要でしょう。諦めた方が負けです。

1912年から始まった大正時代はデモクラシーの時代と言われています。その象徴的事件が翌1913年に起きました。立憲政友会の尾崎行雄と立憲国民党の犬養毅は手を組んで元老が支配する藩閥政治から、議会中心の政治を望む国民運動「第1次憲政擁護運動」を指導します。そして桂内閣を総辞職に追い込みます。政党が力を持って国民と動き出したのです。その5年後、立憲政友会の原敬の下で我国初の本格的政党内閣が誕生しました。その後政党はくっ付いたり離れたり、名前を変えたりしますが、政党政治は深化します。

1930年、民政党率いる濱口雄幸は首相となった時の演説で、「中国内政不干渉」と「ロンドン軍縮条約賛成」を明確に訴えます。そしてすぐ解散し総選挙を実施、民政党を圧勝に導きました。今のような普通選挙ではありませんが、当時の有権者は満州からの撤兵と軍縮を明確に選択したのです。国民の声が選挙を通じて反映され、濱口内閣は国民の声を背景に数々の困難を乗り越え、ロンドン軍縮条約を批准しました。政党政治が機能したのです。しかし一方の中国内政不干渉は、2度の軍部クーデターを経て国民の声が反映すること無く突っ込んでいくことになります。その後総選挙が実施されること無く、政権交代の無い大政翼賛会の時代が始まります。

その後、日本での本格的政権交代は、実に2009年まで待たなければなりません。80年前の一時の間、この日本に国民を信頼する政党政治が実現しました。しかしどうでしょう。現代で政権交代を果たした民主党野田政権は、総選挙をせずに消費税増税の道を選びました。これを「決めるべきときに決める政治」と言うのでしょうか。いや違います。多数を維持している間に決めてしまおうという国民を信頼しない官僚的政治です。国民を信頼しない政権は国民からも信頼されませんでした。80年前には失敗に終わった日本の政党政治。再び失敗に終わらせるわけにはいきません。

国民と政党が相互に信頼する関係を築く。民主党が目指すべき道です。国民に政権選択の権利を補償しなければなりません。諦めた方が負けです。政権交代の無い官僚政治を復活させてはならないのです。

2012-12-19 | Posted in 日記No Comments »