2019-07-31

「マイケル・ムーアの世界侵略のススメ」を使って学習会をやってみた。

 福岡県本部のユース部学習会に呼ばれた。いつものことだが、若者が「政治に無関心、もしくはそんなに興味がわかない」の問題だ。そこで「関心を持つべきだ」論の話ができないか。これがオファーだった。容易なことではありません。この問題は。これまでどれだけ多くの人々がこの問題に長〜い間挑戦し続けているだろう。だが一向に若者の政治離れが改善されたという話は聞きません。
 さあどうしよう。何を話そう。と考えたわけであります。そんな時、ふと自宅に借りてあったDVD「マイケル・ムーアの世界侵略のススメ」を観てみた。面白い。
 非常に面白い。よしこれを使おうと思い立ったは良いが、2時間以上の大作。とても全部を紹介するわけにはいかない。何せ僕に与えられた時間は40分なのですから。かといって編集する能力は僕にはないので、結局は会場で早送りし、選んだシーンだけ観てもらうという戦術に決定した(笑)。
IMG_0560 さてこの映画、原題は「Where to invade next」。「次はどこを侵略しようか」という意味でしょう。ベトナム、イラク、アフガン等々様々な理由をつけ戦争をしかけるアメリカを皮肉っているのだろうが、今回は世界中の国で実践されているアメリカにはない常識をアメリカに持ち帰る、奪い取るという設定。だから「侵略」なのである。
 奪い取られる国々は、イタリア、フランス、フィンランド、スロベニア、ドイツ、チュニジアなど。
 例えばイタリアは、何とも羨ましいほどの有給休暇の使い方とそんな働き方を当たり前と考える世界的超有名企業の経営者。
 フランスはこれまた何とも贅沢な小学校の給食システム。給食は重要な食べることの教育の時間と考え、ちゃんとした手を抜かないコース料理を出す。それも落としたら割れる陶器やガラスの皿、コップを使って。もちろん学校に調理場がなければそんな提供はできない。面白いのは監督の取材スタッフの子どもにアメリカの高校生がいて、そこの給食写真を小学生に見せる。そしたら子どもたち思わず「オエー」。まるで家畜の餌だと言わんばかりの反応なのだ。
 この他、宿題をなくして子どもの成績を飛躍的に伸ばしたフィンランドだったり、スロベニアでは大学が完全無料。大学生は全員が無借金。唯一借金があるのがアメリカからの留学生といった笑えない話などなど、日本人が観ても羨ましい限りの世界の常識がいっぱい紹介されている。そのどれもが市場原理主義が席巻するアメリカではあり得ないものばかりなのだ。
 そしてそれは日本にも当てはまる。いつの間にかこの国はとことんアメリカナイズされてしまっていた。そのことに気付かされる。「カロウシ」を生み出した日本。単独校方式からセンター方式へ、そしてさらに民間委託へと給食を「食の教育の時間」から「喰らわす時間」に変える日本。授業料が上がり続け、奨学金もサラ金化させ、高等教育の場に市場原理を持ち込んだ日本。
 公共とはなんだとう。宇沢弘文(経済学者・故人)が提唱した「社会的共通資本」の考えを噛みしめる。空気、水、自然、教育などといった人が生きていくために必要なものをこう定義した。
「一つの国ないし特定の地域に住むすべての人々が、ゆたかな経済生活を営み、すぐれた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を持続的、安定的に維持することを可能にするような社会的装置を意味する。」のが社会的共通資本であり、国家的に管理されたり、利潤追求の対象として市場に委ねられたりしてはならず、職業的専門家によってその知見や規範に従い管理・維持されなければならないのだ。
 思えば平成30年でいかにこの社会的共通資本が市場化さていったか。自治体の現場はこの30年間その嵐に吹きまくられてきた。それは今、社会問題になっている地方の人口減、地方の疲弊と決して関係なくはない。
 学習会では10分そこそこ映画を観てもらったあとに、そんな話をした。そしてそのすべてに政治が密接に絡んでいると。さてどれだけ伝わったかはわからないが、僕の話よりこの映画を全編観た方がよっぽど勉強になったはずだが残念だ。
 マイケル・ムーア監督は、この映画で最後にこう述懐する。
「どれもこれも、かつてはアメリカが始めた制度だ。それぞれの国にできてアメリカにできないはずはない」と。
そう日本にできないはずはないのである。

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2019-07-25

「風立ちぬ」

 僕は福岡県出身である。福岡県は北西を玄界灘、北東を周防灘に接する。南は筑紫次郎との異名を持つ九州の大河筑後川が流れ、広大な筑後平野を造っている。ちなみに大河三兄弟の兄は関東の坂東太郎「利根川」、三男が四国三郎「吉野川」。日本人は何かと三つを選ぶのが好きな民族だなと思う。例えば日本三大祭。京都の祇園祭、大阪の天神祭、東京の神田祭を言うが、さらに地域ごとに東北三大祭りとか江戸三大祭りとかを選んで自慢している。日本人の三大好きは結構昔からのようで、例えば「雲太、和二、京三」というのをご存知だろうか。昔の三大建造物のことで、雲太は出雲の出雲大社、和二は奈良東大寺の大仏殿、京三は京都平安京の大極殿と言われている。現在の出雲大社はそんなに大きくないのだが、太古の大社は相当大きかったらしく、最近の発見で96メートルくらいあったらしいとも言われている。日本人はそんな古いころから「三大何とか」を選んで楽しんでいたという訳だ。
 その筑後川が南に流れ、注ぎ込むのが有明海。その有明海に面した大川市というところで僕は生まれる。これを言いたかっただけなのだが、ちょっと遠回りしてしまった。そこから幼稚園のときに隣の三橋町に引っ越し、藤吉小学校に入学、卒業する。僕の小学校の後輩に俳優の妻夫木聡くんがいる。これも蛇足です。
 つまり僕は福岡出身で、出身県本部が発行する機関誌「自治労ふくおか」に「風立ちぬ」という僕のコラム欄がある訳で、それが、だいぶ書き溜まったので、このブログでも紹介しようと思ったということです。
 そこでコラム名をなぜ「風立ちぬ」にしたか、ということ。これは第1回で書いたのだが、今読み返すと紙面の都合で少々説明不足になってしまっている感あり、ですこし編集して紹介する。

・・・久しぶりに「自治労ふくおか」に連載を始めることになった。県本部書記長時代に書いていた「トンカジョン」以来だ。前回のは自分で言うのも何だが、結構読まれていたみたいで、読者の組合員の方から手紙までいただいた。さてその「トンカジョン」だが、議員となった今はブログ「トンカジョンの議員日記」で継続しているので、そちらも覗いていただいたらありがたい。トンカジョンという言葉の説明もそちらに譲ることとする。
 県本部から依頼の中に「このコラムのテーマも考えて欲しい」があった。それで「風立ちぬ」にした。「風たちぬ」は宮崎監督の最新作のテーマでもあるが(ゼロ戦を設計した堀越二郎をモデルにスタジオジブリが制作した「風立ちぬ」が当時公開中だった。)、もともと小説家堀辰雄が自身の小説に「風立ちぬ」を題した。宮崎アニメの「風立ちぬ」も堀のこの小説の影響を受けたようだ。小説「風立ちぬ」は、婚約者と付き添う「私」が主人公で、婚約者は重い病に冒されていて、この二人の限られた生活を描く。堀は、フランスのポール・ヴァレリーの詩「海辺の墓地」の中の言葉を「風立ちぬ、いざ生きめやも」と訳して小説の中で使う。そして小説の題にもした。
 病の彼女と「私」。二人は美しい自然の風景にも、頬撫でる風にも「生」を感じる。ふいに吹き立った風。その時「私」が発した言葉として堀は、「風立ちぬ、いざ生きめやも」を使った。「生きなければならぬ。でも生きれないかもしれない」。そんな不安な葛藤の表現ではあるが、「生きよう」という意思を強く感じるのは僕だけではなかろう。
 宮崎監督の「風立ちぬ」は観てはいないが、時代背景は戦争という不穏な風が舞っている頃だ。監督は、堀の思いに加え、もう一つ観る人に問いかけているのではないか。「風が吹き始めた。さあ立ち上がろう」と。
 僕らが生きる今、少々不穏な時代になりつつある。だから「風立ちぬ」にしてみた。
・・・
 2013年に書いたコラムだ。それから7年が経つ。そしてついこの間、参議院選挙が終わった。残念ながら時代の不穏さを吹き消す結果とはならなかった。「風立ちぬ、いざ生きめやも」である。

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2019-05-22

江戸時代もあった東京一極集中。

 東京一極集中は日本人の性癖なのか。DNAに組み込まれた遺伝子がそうさせるのか。あの江戸時代も江戸一極集中が問題となっていたそうだ。
 今日の朝日新聞朝刊の特集「耕論」の「東京の大学めざすな?」が面白い。歴史学者の藤田覚(さとる)さんが寄稿した「江戸時代に失敗した政策」を読んでなるほどと思った。
 多すぎる首都の人口を減らす、ことがかつてこの国で政策課題に上った。それは天保年間(1831〜45)の老中・水野忠邦の頃で、なんと「人返しの法」として実施されたというからすごいではないか。江戸に出ていた農民を村に返し、逆に農村から江戸への流入も禁止した。
 当時の江戸は人口110万人の世界一の都市だった。仮に当時の国の人口を3000万人とすれば、3.7%が江戸に住んでいたことになる。110万のうち約半分がその日暮らしの下層町人という。ひとたび飢饉や大火事等の大惨事が起きれば、とても対応できないと幕府が考えたのも合点がいく。「天保の大飢饉」を何とか乗り切った矢先なので緊急性もあったのだろう。江戸に人が集まることは、主に職を求めての農民層が中心となれば、農村では人口減が進むことになる。封建社会だから農民が減ればその分年貢収入も減る。これも幕府にとっては大変なこと。「人返し法」は江戸の治安上の問題と農村の生産力回復という2つの目的を持っていたと藤田さんは書いている。
 さてでは「人返し法」は成功したのか。実は効果が上がらなかった。藤田さんの話にはあの遠山の金さんも登場する。実は当時江戸町奉行だった金さんは、この法に反対した。理由は、農民が江戸に出てくるのは「過重な年貢負担を強いるからだ」と主張。地方の実情を考慮せずに江戸の人口抑制に取り組んでも、成果は上がらないという訳である。実際そのとおりだった。
 現代の東京一極集中はどうか。東京都の人口は約1300万人。実に全人口の約1割が東京都に集まってしまった。天保の時代よりはるかに深刻な一極集中なのである。人が多い分、高齢者の人口も多い。千葉県、神奈川県なども入れると関東圏の65歳以上の人口は1000万人を超えている。当然高齢化の進行でもっと増える。施設が足りるわけがない。地価がこんな高いところで、高齢者施設の経営は成り立たない。地主や企業は効率が良くもっと儲かる活用しかしない。必然的に東京では普通の高齢者が入居できる施設は不足する。同じことは保育にも言える。
 どうするつもりだろう。ある時、官僚に聞いてみた。その回答は、「出ていってもらうしかないですね」。お金を持たない高齢者は自己責任で東京からどこかに引っ越すしかないということなのだ。つまり策がないのである。
 「人返し法」といった実力行使をやった江戸時代の方が、江戸一極集中や農村人口減を深刻に考えていたのかもしれない。
 江戸時代も現代も、必要なのは地方が今より魅力的になり、暮らしも充実すること。そのためのあらゆる政策を戦略的に進めていかなければならない。例えば地域に人が住む以上絶対必要な公共サービスである保育、教育、医療、介護などを充実させ、そこに従事する人を増やすことで雇用を生むことも一つの政策だ。権限財源移譲も本気で進めなければなるまい。やることは一杯ある。選挙目当てのような地方創生やふるさと納税といった政策に時間と労力を費やしている場合ではないのだ。

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2019-05-21

福山駅前はバラで一杯でした。

 昨日、党の用務で福山市へ行ってきました。福山市って何県にあるか知らない人が多い、と以前福山市の人が言っていました。広島県です。広島県といえば広島市があまりに有名なので、確かにかすんでしまうのかもしれません。県東部に位置し、人口46万人の大きな都市なんです。
 福山駅を出ると、なんかいい匂いがします。そんな思いで何気なく花のアーケードを通ると、匂いの主がわかりました。薔薇です。バラのアーケードなのです。そう気づくと花壇の花もぜ〜んぶバラ。あとで聞けば一昨日までバラまつりが行われていたそう。福山市はバラで有名なんです。
 調べてみると、戦争中の空襲の惨禍を悼み、荒廃する街を憂いた福山市民有志が、1956年に市内の空き地にバラの苗約1000本を植えたことが、福山市とバラの起源のようです。あと、宮崎アニメの「崖の上のポニョ」で有名になった「鞆の浦」も福山市です。IMG_0491

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2019-05-16

ふるさと納税処分で、名ばかり地方分権が露呈。

 国の言うことを聞かない自治体がついに処分されました。泉佐野市など全国で4自治体です。ふるさと納税の返礼品を巡って総務省の再三の自粛要請に従わなかった。よってふるさと納税の優遇措置を受けられなくする、ということです。処分ではないと反論されそうですが、やっぱりお仕置きでしょう。仲間はずれという「いじめ」にも近い。
 子どもたちの会話です。ある子が「氷がとけたら何になる?」と問題をだします。ある子は「水になるよ」と答える。別な子は「春になる」と答えます。横で聞いていた大人はほのぼのとした気持ちになったりします。
 これが学校だったらどうでしょう。理科の授業中だったら「水になる」が正解でしょうし、国語の授業であれば「春になる」が感性豊かで良いね、となったりします。自由討議中だったら両方正解ですよ。「理科の質問です」と言わずに質問した先生が、「春になる」と答えた子を「それは間違い」と怒鳴りつけ、教室から追い出した、今回の処分はそんな感じがします。
 返礼品が豪華である。返礼品が地元産品ではない。など批判が相次ぎました。でもそもそも最初から返礼品競争を煽る制度だった。もっと言えば競争が激化しなければこの制度は今のように全国に広がるはずがなかったのです。
 ふるさと納税と「納税」という言葉を使っていますが、ふるさと納税は税金ではありません。「金品を贈る」という寄付行為です。「贈る」とは感謝、愛情、支援などの気持ちを表す際に金品を与えること。ですから、ふるさと納税は本来見返りを前提にした制度であってはならなかったはずです。これまでどおり寄付控除の対象くらいで良かった。しかしそれでは国民に広がるはずがないわけです。誰が考えてもわかりきっていたことです。しかし知恵者がいて見返りの返礼品を制度に組み込んだのです。そして手続きを簡素化した。手数料目的でふるさと納税を仲介する業者まで現れ、劇的に制度が広がります。関心がなかった自治体まで我も我もとこぞって制度を利用するようになる。豪華返礼品競争は起きるべくして起きたのです。
 ではもともと「ふるさと納税」とはどんな制度か。
 「この町」に住んでいる「ふるさと君」が「あの村」に3万円のふるさと納税をすることにしました。するとあの村から、14500円相当の返礼品が送られてきました。返礼品はあの村の特産品ではありません。でもふるさと君は知りません。ふるさと君は所得税20%適用のサラリーマンです。ふるさと君とこの町、あの村の損得勘定はどうなるでしょう。

まず、ふるさと君。
 ふるさと納税額は2000円(ふるさと納税下限額)を超えないと優遇措置を受けられないので、ふるさと君は国から、(3万円−2000円)×20%=5600円の所得税が還付されます。そして、この町では28000円(3万円−2000円)−5600円=22400円が住民税から控除されます。ふるさと君は、3万円のふるさと納税の結果、5600円+22400円+14500円(あの村からの返礼品)=42500円相当の利益を得ました。つまり12500円の儲けです。
 
あの村、はどうでしょう。
 ふるさと君からの3万円のふるさと納税は、あの村の地方交付税基準財政収入額算入外の収入ですから、3万円まるまる収入となります。返礼品の送付や選定等の事務料が3千円かかったとします。あの村は地元産品が無いので隣町から14500円相当の返礼品を購入しました。あの村の利益は、3万円−(14500円+3千円)=12500円の儲けとなります。

この町は、どうでしょう。この町は大きな企業も無く税額は豊かではありません。ふるさと君から入る予定だった住民税22400円がなくなるのは痛い。しかし、ふるさと納税はこの町のような自治体のために、税収減を交付税で補填することにしています。ですから22400円×75%(100%−交付税留保財源25%)=16800円が国から補填されます。ですから、この町の損失は22400円−16800円=5600円です。
※交付税をもらっていない裕福な自治体、例えば東京都などは、補填は受けられませんので、納税額まるまるが減収となります。でも東京のような裕福自治体は圧倒的少数なので、反対は黙殺されます。

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 ふるさと君に対し公共サービスを提供している。言い換えればお金をかけているあの町だけが損をします。ふるさと納税制度が、税の応益原則に反するといわれるのはこのためです。
 またふるさと君とあの村の関係も損得の算盤勘定の上になり立ちます。
 3万円のふるさと納税での返礼品の額の幅は、2千円より高額で(ふるさと納税下限額の2千円以下ではふるさと君が損をします)、納税額3万円から3千円の返礼品事務手数料を引いた27000円より安い、つまり2000円<返礼品<27000円の不等式が成り立ちます。返礼品事務手数料が同じと仮定すれば、この不等式の範囲内でふるさと君は納税自治体を選び、あの村は不等式の範囲内で他自治体と返礼品競争を強いられる。これがふるさと納税制度の実態です。もともとこういう制度だった。泉佐野市などは、この制度を最大限活用し収入を上げていた訳です。寄付という非資本主義的行為を税制度の特例と返礼品を組み合わせることによって、見事に資本主義制度に変えてしまった。
 おかしな制度をつくっておいて自治体間競争を煽り、批判が増えたから今度は、また法律をつくって自治体を脅す。国と自治体は対等平等のはず。しかし実態は国の言うまま命ずるまま。名ばかり地方分権を見せつけた「ふるさと納税騒動」でした。
 この制度、そのうちまた問題が起きます。規制をかけても規制の枠内で返礼品競争は激化するでしょう。自治体間の格差は広がり、不満は蓄積します。さらに規制をかければ消費者にとって魅力はなくなり、納税額は激減するでしょう。
 いずれにしてもいっときの夢の宴。そんな制度に付き合うよりもっと他のことにお金や人や知恵を使った方が良いに決まってます。

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