2021-02-22

風立ちぬ№2「素直な7割の人々」

 7割。日本でマスコミを信頼する国民の割合である。第5回メディアに関する全国世論調査によると、信頼する割合はNHKで70%、新聞が69%、民放でも60%の高率である。これでも少し低くなったが、概ね7割に変わりはない。
 世界でこれほどマスコミを信用している国民はいないと言われている。「素直」なのだと喜んでも良いようだが、そうもいかない。信用しているマスコミの体制が、これも世界では珍しいクロスオーナーシップ制だからだ。
全国紙5社全てが民放を傘下に納めているという国も他にない。しかもキー局制なので、放送と新聞を通じ全国民への情報発信を独占していることになる。
 それを7割の人々が信用する。NHKと民間資本のマスコミの動き次第で、世論はいかようにもつくられると言って良い。
 国会に特定秘密保護法案が提出されようとしている。一方で日本では情報公開制度が不十分で、「知る権利」が確立されているとは言いがたい。素直な7割の人々は「知ろうとする」権利意識も少ないのかもしれない。
 特定秘密のあとから、集団的自衛権行使容認や憲法改正を国民が決断しなければならないときが来るのは承知のこと。素直な7割の人々も決断を迫られる。無関心に逃げ込めば、「決断」において、何が問題なのかと自問自答する苦悩はしないですむ。権力側からすれば楽極まりない。素直な7割の人々がいて、情報発信力を一部が独占する国だからこそ、特定秘密保護法成立後を恐れるのだが。

・・・書いたのは2013年10月22日。この年の7月に参議院選挙が行われ、自民党が現行制度下で最多の65議席を得て圧勝した。前年政権に返り咲いた自民党だったが参議院は野党が多数を占めるいわゆる「ねじれ」だった。安倍首相は政権基盤を強化し、経済政策「アベノミクス」とともに、特定秘密保護法の制定など保守色が強い政策を推し進めることになる。そして12月6日の深夜、国会を取り巻く市民の政府批判の怒号の中で「特定秘密保護法」が強行採決された。
 翌年1月、国民の7割が信じているというNHKの会長に籾井勝人氏が就任。最初の記者会見で「政府が『右』と言っているのに我々が『左』と言うわけにはいかない」というあの持論が波紋を広げた。その後も政治とNHKの関係は決して国民が納得するような状況にはなっていないと思う。

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2021-02-18

始めましょう。「風立ちぬ」。

 任期も残すところ1年半足らずとなりました。昨年から今年にかけてのコロナ感染拡大で行動も制限され、これからいつまでこの規制や巣篭もり生活が続くのかわかりません。以前のように集会や学習会にも行けません。この状況が最悪来年まで続けば、そのまま参議院選挙戦に突入することだってあり得ますね。そう思ったら最近全くブログ更新していないのは問題だと思いました。1期目のときは結構書いていました。それをまとめた本「『バカの壁』を超えて」を読み返してみるとそう思います。辛辣な文章もあります(笑)。
 さて何を書こうかと考えたところ、この間、隔月ですが出身の福岡県本部の機関紙にコラムを掲載してもらっているのに気づきました。実は昨日書いて送ったばかりです。調べてみたら1回目が2013年9月に書いていて、昨日の分で70回ほどになるのです。これ結構な分量となります。地元機関紙ですからあまり公になることもないので自由に書かせてもらってます。残りの期間、このコラムを加筆修正してブログ更新してみます。1週間に1回更新するとして7日×70=490日分あるのです。
 コラム名は「風立ちぬ」。1回目は「風立ちぬ」とした思いを綴っています。懐かしい。

 久しぶりに「自治労ふくおか」に連載を始めることになった。県本部書記長時代に書いていた「トンカジョン」以来だ。前回のは自分で言うのも何だが、結構読まれていたみたいで、読者の組合員の方から手紙までいただいた。さてその「トンカジョン」だが、議員となった今はブログ「トンカジョンの議員日記」(このブログのことです)で継続しているので、そちらも覗いていただいたらありがたい。トンカジョンという言葉の説明もそちらに譲ることとする。
 県本部から依頼の中に「このコラムのテーマも考えて欲しい」があった。それで「風立ちぬ」にした。「風たちぬ」は宮崎監督の最新作のテーマでもあるが(ゼロ戦を設計した堀越二郎をモデルにスタジオジブリが制作した「風立ちぬ」が当時公開中だった)、もともと小説家堀辰雄が自身の小説に「風立ちぬ」を題した。宮崎アニメの「風立ちぬ」も堀のこの小説の影響を受けたようだ。小説「風立ちぬ」は、婚約者と付き添う「私」が主人公で、婚約者は重い病に冒されていて、この二人の限られた生活を描く。堀は、フランスのポール・ヴァレリーの詩「海辺の墓地」の中の言葉を「風立ちぬ、いざ生きめやも」と訳して小説の中で使う。そして小説の題にもした。
 病の彼女と「私」。二人は美しい自然の風景にも、頬撫でる風にも「生」を感じる。ふいに吹き立った風。その時「私」が発した言葉として堀は、「風立ちぬ、いざ生きめやも」を使った。「生きなければならぬ。でも生きれないかもしれない」。そんな不安な葛藤の表現ではあるが、「生きよう」という意思を強く感じるのは僕だけではなかろう。
 宮崎監督の「風立ちぬ」は観てはいないが、時代背景は戦争という不穏な風が舞っている頃だ。監督は、堀の思いに加え、もう一つ観る人に問いかけているのではないか。「風が吹き始めた。さあ立ち上がろう」と。
 僕らが生きる今、少々不穏な時代になりつつある。だから「風立ちぬ」にしてみた。

 ちなみに2013年9月7日に2020年の東京オリンピック・パラリンピック開催が決定しました。招致スピーチでフクイチ原発の汚染水は「アンダーコントロールだ」と世界に訴えたのが安倍首相。その汚染水はたまりにたまり海洋投棄を寸前です。首相スピーチは嘘だったわけです。その無責任総理も退き、政権は菅政権に移りました。新型コロナウイルスの感染拡大も2年目に突入し、未だ終息の道筋は見えない中、1年延期された2020東京オリ・パラの開催が危ぶまれています。コロナ禍で消費や移動は激減し経済は大変なはずなのに日経平均が3万円を突破するなど考えられないことが起きています。
 吹き始めた風はざわつきだし、空気は不穏さを強めている。
 

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2021-01-13

明けましておめでとうございます。

明けましておめでとうございます。

みなさん、昨年は大変お世話になりました。今年もどうぞよろしくお願いいたします。名称未設定2

さて昨年、中国の武漢あたりで何やら新しい風邪が流行しているらしいというくらいの思いで正月を迎えたことを思い出します。

それがまたたく間に世界を席巻する様を目の当たりにし、あらためてグローバリゼーションの深化を痛感させられました。様々な形で人と人とが繋がっている。昔であればこれほどのスピードでウイルスが世界中に広がることはなかったでしょう。

気候変動に加え、私たちが地球規模で問題解決に当たらなければならない深刻な課題を突きつけた新型コロナウイルスです。気候変動は少しづつ少しづつその影響を私たちに知らしめるのに対し、感染症はまさに日々、人の命を奪っています。その分気候変動より人類の共通課題と認識しやすいのではないかとも思います。人種、宗教、地理的条件など様々な違いを乗り越えた人類の統一と団結が必要なはずなのです。

しかしアメリカに至っては深刻な政治的対立が危機的状況になっています。こともあろうに国会議事堂で死者が出ました。同じ国民同士でこれほど対立していたら地球規模での課題解決など夢のまた夢のように思えてしまいます。

一方国内です。昨春に非常事態宣言を出し一時は抑え込んだかに見えた感染症です。しかしその時も異口同音に専門家から冬の感染拡大に対する懸念の声が出ていました。この間に政府がどんな対策を講じたでしょうか。またもや健康を理由にした安倍総理の突然の辞任とどたばたの権力掌握での菅政権の誕生。6月の国会閉会から10月まで国会を閉じました。様々な対策を講じなければならない期間にも関わらずです。秋以降再び感染拡大が始まりました。背景には終息もしていないのに始めたGo toキャンペーンがあるとみんなが感じていること。しかし政府はエビデンスが無いとまともに取りあおうとはしませんでした。私が担当する参議院国土交通委員会でも共産党の武田委員の質問に対し、声を荒げて「エビデンスが無い」と反論する大臣の姿が異常でした。

アメリカ、日本で共通するのは政治の劣化です。世界一の経済大国であり世界の民主主義を牽引する先進国であるはずのアメリカが、新型コロナウイルスの感染者も死者も断然世界一位という事実は、彼の地にまともな公共サービスが根付いていないという証だと感じます。

我が国も同じです。どんどんアメリカに似てきました。自助優先の国になりました。何らかの理由で日本では感染拡大のスピードが遅く、重篤化する人が少ないことに無策の政府が助けられています。

資本主義、市場原理主義、新自由主義を追い求める政治では地球的規模の課題解決に立ち向かうことはできないと思います。経済優先、お金持ち優先の政策の行き詰まった先が政治の劣化が深刻なアメリカと日本の現実ではないでしょうか。アメリカでは政権が交代します。権力が交代する分まだ民主主義は生きています。翻って我が国は明治以降の一貫した保守政治が続き未だ富国強兵の拡大路線に固執するばかりです。富ませるべきは国民であり国では無いはずです。政権の交代が焦眉の急である国は私たちの国です。幸い政権党の劣化は凄まじく春の補選の勝利が起点となり一気に政権交代という道も夢ではありません。

そう気合を込める私も2期目の折返しを過ぎ残す任期も2年を切りました。今期限りで政治の場から身を引く決断をし、後任となる候補者ももうすぐ決まります。引退のあいさつはまだまだ早いのですが、この間ご支援いただいた皆さんに心から感謝を申し上げ、新年の挨拶といたします。

コロナ禍が収まらず昨年に続き今年も大変な中でのスタートとなりました。過酷な環境で奮闘する皆さんに心から感謝申し上げます。そして今年が皆さんにとって本当に良い年でありますよう願います。

 

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2020-06-30

泉佐野市が逆転勝訴。あっぱれ最高裁!

 泉佐野市と国の争いが、泉佐野市の勝利で決着がついた。ひさしぶりの司法に「あっぱれ」です。泉佐野市の返礼品のあり方には問題はあるが、制度の範囲内であったことは間違いなく、泉佐野市に落ち度はなかった。もとを正せばそんな制度をつくった側が責められるべきものだ。しかも国が設置している「国と地方の係争処理委員会」でも総務省、つまり「国」側が悪いとしていたのに、高裁は大方の意に反して国に軍配を上げた。高裁判決が大問題であったのだが、今回最高裁はその判決が間違っていたことを示し、我が国の司法の信頼をかろうじて守った。
 「あっぱれ」というのはおこがましいが、この間の我が国裁判所の権力追従姿勢からみてほぼ諦めていた私からすれば驚きであったのです。
 これも安倍一強の崩壊が原因かもしれない。なにせこの制度をつくったのは、権力の中枢にいる菅官房長官だから。
ふるさと納税制度の何が問題なの?と思っている方は以前投稿した本ブログの「ふるさと納税処分で、名ばかり地方分権が露呈。」(2019年5月16日)をご参照ください。

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2020-05-22

どんなシナリオで逃れようと終末に向かう政権。

 「掌を返す」とは、「人に接する態度の急変するたとえ」であり、「掌を返すように冷たい態度をとる」といったように使う。国民周知の中でよくもまあこれほどこの言葉が似合う態度をとれるものだ。もちろん安倍総理のことだ。
 つい二三日前までは「余人を持って変えがたし」と見識、能力を褒め称え、無理やり定年延長した黒川東京高検検事長に対しての態度である。森友問題でも「素晴らしい教育を実践されている」と昭恵夫人が褒め称え、総理銘柄で国有地を破格の安値で払い下げておいて、分が悪くなると私は知らないと切って捨てられた籠池前理事長がいた。籠池氏は詐欺罪の犯人とされ大阪地裁で5年の実刑判決まで言い渡されている。
 黒川氏が今夏、検事総長になってもならなくても政権批判は大きくなるし、秋の臨時国会では先送りした法案審議で政権が火だるまになることは目に見えていた。
 官邸にとって一番良いのは話題の黒川氏が「自己都合」で辞めてくれることだった、と思う。そう考えると突然の賭け麻雀の話もきな臭い。
 文春オンラインが「黒川氏賭け麻雀」を速報したのが、検察庁法改正案先送り決定の翌々日。一気に黒川氏、悪者、検事不適切となり、報道翌日には訓告処分、辞表提出、森法相が首相報告、森、安倍総理記者会見とまあ手回しの疾きこと。徹底して守り続けた官僚はいっぱいいる中で異例の速さである。
 だいたい、週刊誌の情報は野党でも販売される前には入手できる。官邸が知らないはずがないと考えるのが常識だ。報道される前に法案先送りを決定するか、後に決定するか。当然前者の方が官邸にとって都合が良いに決まっている。そもそも高検検事長が非常事態宣言中に賭け麻雀をやるものなのか。総理御用達新聞の記者2名がメンバーなのも気になる。賭け麻雀が良いとは言わないが、話題の高検検事長辞任の理由にしては「?」がつく。とってつけたような雰囲気を感じてしまう。
 いずれにしても無理やり定年延長して、その後付法案の審議で国民を敵に回し、内閣支持率が落ちてしまう。その一連の騒動の主人公である黒川氏が「罪を犯し」辞任した。官邸にとっては、辞任させたのでは任命責任は免れず、かといって(国民批判を感じて)ただ辞任してもらったら面子がつぶれる。黒川氏を守り続ければ、抱えた火種に臨時国会で火がつき大炎上となるのが必定。八方塞がりだった。一方、黒川氏にとってもただの自己都合で辞任すれば、自分を評価してくれている官邸に弓を引くことになり、退職後の去就にも影響する。傷を追ったが、さらに深手を負うことを双方が避けた。検察組織としても「黒川一人の罪」で終わる。良いシナリオだな、と思うのである。
 官邸にとってもう一つの重荷はどうするか。先送りした法案の処理である。集中砲火となる国会審議は避けたい。そこで「このような状況の中で国家公務員定年延長はいかがなものか」と絶妙なタイミングで助け舟を出したのが世耕前経産大臣である。いや官邸が世耕氏に言わせたのだろう。当然首相も言い出した。「公務員全体の定年延長を含む制度改革は、国民の意見に耳を傾けることが不可欠」。おいおい問題はそこではないだろう、である。「検察庁」の一言も無い。
 いわば母屋改築(国家公務員定年延長法案)の設計図に後から小屋増築(検察庁法改正案)も加えて建設を依頼したようなものだ。だったら問題が生じた小屋の増築だけを取りやめれば良いものを、母屋改築そのものに問題があったと全部取りやめようというのだから呆れる。母屋の改築は、定年と年金受給とを接続させ、公務員が定年後の生活を不安なく暮らすために必ずやらなければならない工事なのである。お隣の民間勤務の家は随分前に改築を済ましているというのに。
 状況が変わったと、束ねた法案をまるごと廃案にするきなのだ。自らの利のためには何でもどんなことでも利用しつくす。他がどうなろうとも。どこまでも自己都合に徹する政権である。
 しかし、黒川検事総長にこだわり、法案成立に固執した菅官房長官はこの数日の官邸の動きをどう思っているのだろうか。
 いやそんなことはどうでも良い。どんなシナリオで逃れようと政権は終末に向かって走り出している。

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