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政治は危うい・・・原発再稼働②

◯江崎 それは確実なのでしょうか。結果として今いろいろ出てきていますけれども、それがウエットだったかどうかも非常にあやふやになってきている。今、「原子力ベント」でネット検索をしますと、トップに「東芝の原子炉格納容器のベント装置の特許」という、これが来ます。極めてマニアックなものなんですけれども、そこにはこう書いているんです。

「日本の原子力プラントは世界と比較して構造上安全性が高いので、過酷事故(いわゆるシビアアクシデント)、これは工学的に起こり得ない、そういう事象として考えて、過酷事故対策を実施する義務付けは今のところしていない。」。これは事実ですね。「過酷事故のための設備設置は一般大衆に対して原子力プラントについての安全性の不安を必要以上に感じさせ、原子力発電への社会的理解を得る点では好ましくないという支障があった。」と、こういうことを書いた上でプラントの特許申請をしている。

安全神話をつくり上げ、過酷事故対策というのを本当にないがしろにし、原子力政策を邁進してきた政府の姿勢がある。これは自民党の皆さんにも考えてほしいんですけれども、そのことを今問われている。ヨーロッパは、どんなベントであれ、結構大きな巨大フィルターが付けられているというふうに聞いています。そして、フィルターも付けずに、ドライなのかウエットも分からないというベントをしてしまった。これは事実なんですね。政府はこれまで巨大なベント用のフィルターを付けることを義務化していません。東電等の民間の電力会社に自主的に任せているという、こういう実態なんです。で、過酷事故が実際起きたんですね。それでどれだけ放射能が広がったか、これも非常に重要なことなんです。これから先、計画の見直し、フィルターの義務付けを事業所ごとにやっぱりきちっとやっていく、これが必要じゃないんでしょうか。大臣にお聞きします。

◯海江田経産大臣 過酷事故を前提にしてということでありますが、こういう事故が起きてしまったわけですから、やはりこの過酷事故対策の在り方について、予断を持たずにしっかりと徹底的な検証をして見直しを進めていこうと思っております。ベントにつきましても、私がウエットベントだと、水を通すと、必ず通してくださいということを言いましたので、ウエットベントだと承知をしております。

◯江崎  済みません、再質問させていただきます。そうしたら、どうされるんですか。義務化をされる、フィルターを付けるという過酷事故対策はこれからされるんですか、されないんですか。

◯海江田環境大臣 実は、私も、ウエットベントの方はそういう意味で水を通すからということでしたけれども、もう一つ、ドライベントがあるという話も聞きまして、そのとき、当然のことながらこれはフィルターが付いていると思っていたんです。ところが、そのフィルターが付いていないということでありますから、これは今、特に福島の場合はああいう状況でございますので、すぐ取付けをするというような工事もできないわけでございますが、やはりこれは、当然のことながら、とりわけドライの方にはこれはやはりフィルターを付けなければいけないと思っております。

◯江崎 東電だけではなくて、全ての原子力発電所をもう一度それで見直していただきたい。そして、ウエットも、事故によっては機能しないかもしれない。これがはっきりしたんですよ、今回。

◯江崎 班目原子力安全委員会の委員長の静岡地裁での浜岡原発差止め訴訟での発言は極めて有名な話です。私もその速記録を取り寄せました。その中に、

「非常用ディーゼルが2台動かなくても、通常運転中だったら何も起きません。ですから、非常用ディーゼルが2台同時に壊れていろいろな問題が起こるためには、そのほかにもあれもこれも起こる、あれも起こる、これも起こる、仮定の上に何個も重ねて初めて大事故に至るわけで、だから、そういうときに非常用ディーゼル2個の破壊も考えましょう、こう考えましょうと言っていると、これも可能性ちょっとある、これもちょっと可能性がある、そういうものを全部組み合わせていったら物なんて絶対造れませんよ、だからどこかで割り切るんです」という発言をされています。

裁判は2007年です。これは、2007年だったら班目現委員長だけのお考えではなかったと私も思います。ほとんどの方が、全てのここにいらっしゃる方もひょっとしたらそういう考え方であったのではないのかと。産業界はもとより、専門家も政治家もマスコミも、原子力に関する全ての皆さんの思いの中心が今のような考え方であったのではないのか。

最悪の事態を想定すれば物は造れない、だからどこかで割り切る、最悪の事態のレベルを下げてしまう、それ以上のことは「想定外」だ、これが我が国の原子力発電の安全神話をつくり上げていった。安全だから過酷事故はあり得ないのだから規制の中には入れない、安全だから原発の事故は起きない、安全だから市民に対する安全対策は適当でよい、安全なんだから市民に不安を与える情報は極力出さなくてよいと。こういうのは意外と行政の中にあるんですけれども、我々は3月11日に経験をしたわけですから、それであってはならない。班目さんのこの発言を振り返ると、何と無責任だったのかというふうに思えるのは、恐らく3月11日を経験をしたからです。最後に大臣にお聞きします。こういう思いがあって、3.11が起きた。そして、これからの国民の思いを考えると、やはりゼロベースで安全を考えていく。安全神話を崩して、過酷事故に対してしっかりとした目線を持って対応していく、これが必要だろうと。これは全ての政治家に求められているものだろうと思います。最後にその決意を是非お聞かせください。

◯海江田経産大臣 委員もお話しになりましたが、私自身もこの2011年の3月11日の前と後とでは、やはり原子力発電所の安全性ということについて大きく転換をしたということは事実であります。そうした安全神話というものが多くの国民から失われて、むしろ不安である、心配である、危険であるという意識があるわけでありますから、やっぱりそういう人たちの不安に対してどうやって少しでも安心を得られるために努力をするかということがこれからの私の役割、それから原子力行政全般に携わる者の役割ではないだろうかと思っております。(了)

・・・安全神話が我が国原発へのフィルター設置を怠らせた。そしておそらく2011年3月11日まで時の閣僚や多くの政治家がそのことを知らなかった可能性が高い(私もその一人だが)。だがその問題を知った以上、二度と努力を怠ってはならない。当時の経産大臣もそう約束し、フィルターを設置しなければならないと考えた。

あれから1年、政権も大臣も変わった。今、大飯原発の再稼働が現実味を帯びつつある。再稼働を承認するための新基準の中にベントにフィルターを取り付けることの1項が入った。しかし、これは設置する「約束」で済まされる。5月5日に現在唯一稼働中の泊原発が点検で停止する。それまでに大飯原発が再稼働しなければ我が国全ての原発が停止する。それを避けたいという勢力の思いが野田内閣を動かす。フィルター設置までおそらく数年はかかる。再稼働すればその間、またフィルター無しのまま原発が動くことになる。「もしも」・・・大飯原発をシビアアクシデントが襲えば、福島と同じ事を繰り返すことになる。

フィルターが整備されるまで再稼働は行わないことの勇気、英断が3.11を経験した政治家には備わっていなければならない。仮にそのことで国民に我慢を強いることになっても日本国民は努力するだろう。必要なのは情報を公開し、今すべきことの重要性を国民に指し示すことではないか。

一縷の危険性に蓋をし、再稼働の道を歩めば、安全神話の復活となる。政治は危うい。

政治は危うい・・・原発再稼働①

昨年3月12日、福島第1原発の1号機、2号機、3号機で、我が国初のベントが実施された。「ベント」とは格納容器内の圧力が高まり、爆発につながりかねない時に容器内の空気を抜くことを言う。外に放出される気体は当然高濃度に放射能汚染されている。よって少しでも放射能を除去するため欧米の殆どの原発のベント機能にはフィルターが設置されている。ところが日本の現存の原発にフィルターが付いている原発は1基もない。福島のベントで一体どれだけの量の放射能が放出されたかのかわからない。なぜこんなことになったのか?

昨年の5月30日、決算委員会で当時の海江田経産大臣に対して質問した。以下がその質疑の一部だ。( )内は今回説明を加えた部分である。少々長いが、最後にまた話をしたい。・・・

◯江崎 3月12日に我が国で初めてベントが実施をされました。ベントしなければ格納容器が破壊をするという状況だったというふうに聞いております。このベント機能は、福島第一原発、当初は設置されていなかった。設置されたのはいつなのか、お聞きします。

◯政府参考人  東京電力の福島第一原子力発電所におきまして、事故時用に存在いたします換気設備といたしまして、当初はファンを稼働させることで機能いたします非常用ガス処理施設、そういったもののみでございました。そういった意味でベント装置は付いてございませんでした。その後、平成4年、当時の通産省から、いわゆるアクシデントマネジメント対策、事故が発生した場合の対策でございますけれども、アクシデントマネジメント対策を整備するよう要請をしたことを受けまして、事故が進展した場合に格納容器の保護のため放出時の耐圧性能を強化いたしましたベント設備を設けたものでございます。  第1発電所におきまして、号機によるばらつきはございますけれども、平成10年から平成13年の間に6号機、全号機の整備が完了されたというふうに承知をしてございます。

◯江崎 ベント実施の官房長官の記者会見を聞いていたときに、ベントを実施するということは大気中に空気が漏れるということ、怖いなと思っていたら、フィルター付いているからこれは大丈夫なんだ、ということを、私の記憶の間違いでなければそういうふうな発言をされたように記憶をしております。ベントされるときにいわゆるフィルターというのは付いていたのでしょうか。

◯政府参考人 東京電力の福島第一原子力発電所に付けられておりますベント装置に、緊急時に使用されます耐圧強化ベントラインにフィルターは取り付けられておりません。これ、耐圧強化ベントラインを使用する際に、圧力抑制室の水を通ったガス、これはベントすることとしておりまして、そういった場合には、水を通ることによりましてガス中に含まれる放射性物質が水に溶けるという(ウェットウェルベントの方式のことを言っている)、そういったことを考えてございまして、そういった意味で放射性物質の放出量の抑制が期待できるという、そういう考え方の下で現時点におきましてフィルターは取り付けられていないということでございます。

◯江崎 よく分からないんですけれども。いわゆる(ベントには)ドライウエル(水に通さずにそのまま放出する)とウエットウエルがあって、今話されているのはウエットウエルの話だろうと思うんですが、その後の話を聞くと、(通す水のある)サプレッションプールですか、あそこも含めて(地震等で)非常に劣化していた。そういう状況になっていますから、じゃそのベントされたときの状況はドライだったんですか、ウエットだったんですか(破損している中で計画通り水に通すことができたのどうか?を聞いている)。

◯政府参考人 号機による違いがございますけれども、まず最初に行われました1号機に関しましてはウエット、水を通るそういうウエットベントを実施しているところでございます(つまり「1号機以外はウエットウェルができなかった」ともとれる)。・・・②へ続く

自由貿易は民主主義を滅ぼす。

2010年末初版の「自由貿易は、民主主義を滅ぼす」という本を読んだ。仏人学者のエマニュエル・トッドの講演や対談をまとめたものだ。トッドは、題名のとおり新自由主義(ウルトラ・リベラリズム)あるいは市場原理主義下における「自由貿易は民主主義を滅ぼす」と主張する。それは、「民主的な政治体制は、本来、国民の生活水準を破壊するような経済体制とは両立しない」からでる。新自由主義がもたらすグローバリゼーションは、人件費をコストと見る。とすれば、「例えば日本人はもっと安い人件費の中国や、もっと安い第3国と永遠の競争を強いられることになり、結果、労働者であるほとんどの日本人はさらに貧しくなり、富裕層との格差は拡大する。これは民主主義ではない。」ということになる。なるほどアメリカや日本の現状を言い当てているとも言える。これがトッドの説でないならば、「そうは言っても」と反論したくなる。トッドと言えば、これまで多くのことを言い当てたことで有名なのだ。

1976年発行の「最後の転落」では識字率の上昇をひとつの根拠にソ連の崩壊を言い当てた。2002年発行の「帝国以後」…これは私も読んだ。極めて印象に残った本の一つだった…では「アメリカは帝国に非ず」とし、米国の猛烈消費社会を維持するための金融資本主義の継続性を否定し、証券パニックとドルの暴落によって、米国は2050年までにその求心力を失うとした。事実、2008年のリーマンショックに始まり、ドルに対する揺るぎない信頼は薄れつつあるのである。

恥ずかしながら私は、トッドの本は後にも先にも「帝国以後」しか読んだことはなかった。それがこの本を手にしたのには理由がある。先だって官製ワーキングプア議連で前総務大臣の片山さんを招いて話を聞いた。その中で片山さんは、「民主党こそ非正規問題に真剣に取り組むべき」と言う。「勤労者の3割を超える人々が、非正規雇用で労働基本権もない状態で放置されている現状の改善をすべき」、このまま放置すれば、「橋下市長のような主張に関心があつまり、排外主義が台頭する」危険性を主張される。まさにトッドの言う民主主義が滅ぶ可能性があるのである。そのとき片山さんが、この本を紹介したのである。片山さん自身が対談相手で登場されており、議連の講演で話されたことが本の中にも記述されている。

日本社会に停留し出した格差社会の特徴としての非正規問題は、正規職員との対立と相まって我が国の行く末を占う大きな問題となりつつある。トッドや片山さんが危惧するように我が国民主主義の根幹を揺さぶる問題であることを痛感する。そのために今、政治が何をすべきか。パート労働者への社会保険適用拡大で大議論しているようでは底がしれている。もっと根本的な議論が必要ではないか?民間レベルでできなければ、官が先行し波及させるということもあり得るのである。
本の中でのトッドの主張の要旨を記すまでのスペースはここにはない。興味の有る方は是非読んで欲しい。定価2800円で藤原書店から発行されている。

日記74  不覚にもダウン 加えて飛蚊症?

昨日の朝から少し喉に違和感あり。風邪気味かな〜と思いつつ、夕食の酒の席へ。昨夜は気のあった同僚議員とのプライベートな席ですが、いつもはすっとはいっていくビールがどうも美味しくない。やはり熱が出てきました。このところ少々ハードな日程が原因かなと思いつつ宴会席を途中で切り上げたのでした。

今日は午前中の日程をキャンセルし、少し体を休ませました。午後から国会へ、そして今夜もどうしても出席しなければならない宴席が予定されています。最近は余り風邪など引くこともなかったのですが、やっぱり歳かなと思っています。そういえば一昨日くらいに気づいたのですが、視野の中を黒い小さなゴミのようなのが鳥のように飛んでいます。数日間消えないのでゴミではありません。そこでたった今調べたら「飛蚊症」とかいう目の病気のようなのです。近視や老化が原因とか。

やっぱり一度検査が必要でしょうか(:_;)

 

政治の暴力

先週のことだ。自民党のある議員と夕食を共にした。その自民議員は「こんなデフレの時に国家公務員の給与を引き下げるのはおかしい。一緒に法案に反対しよう」と持ちかけられた。もちろん反対などできないが、彼の意見には納得する部分も多かった。法案は成立し、来月から平均7.8%の給与減額が始まる。この法案の直接の対象となる人数は、霞が関や国の津々浦々で働く普通の国家公務員約30万人だ。しかしそれに倣って同じ扱いを受けると思える人々約20万人強を加えると50万人を軽く超える。あってはならないことだが、仮に同調する自治体が1、2割出てくれば影響する者は100万人を超過することは十分考えられる。
我が国のGDPに占める輸出の割合が、17.4%(2008)と主要先進国の中では米国についで低いことはあまり知られていない。ちなみに韓国やドイツは50%近くが輸出に依存する。言い換えれば日本経済の国内消費依存度がいかに高いかである。デフレは需要が抑制された状態にある。もう10年以上デフレに苦しんでいる。一向に消費が上向かないのである。そんな中で今回の国家公務員の賃下げは、日本経済にどんな影響を与えるのだろうか。公側の賃金引き下げが大きく喧伝され、社会に人件費引き下げの雰囲気が醸成されればどうなるか。常識的に考えれば日本経済にボディーブローのように効いてくる。昨日食事した建設関係の経営者は、「なぜこんな時に賃下げするのか理解できない」と言った。益々地方では消費が落ち込むと嘆いておられた。
今回の給与法成立の原因は、国家公務員の人件費削減率を政党が競ったことにある。そして2割削減をマニフェストに書き込んだ民主党が政権の座についた。先輩諸氏に当時の議論経過を聞いても明確ではない。2割削減の政策意義やその方法は後回しだったに違いない。だからこそ人件費削減の意味合いが、マニフェストから復興財源捻出となり、昨年末以降は消費税増税の露払いのようになってしまった。1割近く賃金カットされるというほとんど処分に近い対応を強要するにもかかわらず、この使用者責任のなさはいったなんだろうかと思う。
そう考えるとハッとした。そのなのだ。国家公務員の雇用主そのものが明確ではないのだ。地方の場合、首長が全責任を持つが、国の場合は総理大臣ではない。首相には明確な人事権もない。では各大臣か。それも違う。霞が関の場合は、人事院が試験をし、合格者を決める。試験合格者は希望省庁へ出向き、さらにそこで面接を受けて入省が決まる。任用、身分保障、政治的中立、人事院という国家公務員制度の独特の世界が、この鵺(ぬえ)のような得体の知れない組織の根底にある。使用者責任も明確ではないからこそ議員立法で給与法を提出するという離れ技さえやってのけられる。
考えれば恐ろしいことだ。人事院勧告も制度上残されつつ形骸化し、時の人気取りのような政局で国家公務員賃金が決められる。公務員も労働者であることは法律上も明確であるなか、労働者としての権利が全く保障されていないという矛盾を孕む。こんな無権利状態にありながら、政治の暴力に晒されながら国に忠誠をつくし、公共の福祉の深化や国や地域の発展のためにがんばるという「今」を継続できるのだろうか。早晩バランスを失う。日本は、いろいろ言われても公務員がまだまだ頑張っている国であることは間違いない。だからこそ保たれている社会が、バランスを失う。その時が恐ろしい。目覚め立ち上がり主張する時来たりである。
加えて全権を委任されているはずもない政治、政治家があたかもそう思い込み、政治の暴力を振るう。これは決して良質の民主主義ではない。いつかは破綻する。そうなる前に政治家は目覚めなければならないし、有権者こそが目覚めさせなければならない。国の政治のレベルはその国の国民のそれ以上では決してない。

新聞報道の怪

昨日の産経新聞の記事に驚く。見出しに「交付税6千億円減額 地方公務員給与の削減促進 政府、方針固める」とあり、以下の要旨の記事が続く。

政府が国家公務員の給与削減に併せ、地方公務員にも同程度の削減を促すため地方交付税を減額する方針を固めたことが11日、分かった。平成24年度以降、総額約17.4兆円の交付税から最大で年間約6千億円を減額する。・・・野田佳彦首相は、公務員給与削減を消費税増税に向けた「身を切る改革」の目玉としたい意向だが、国家公務員の給与削減で生み出される財源は年間3千億円程度。・・・約56万人の国家公務員だけではなく、約234万人に上る地方公務員の給与引き下げも行うことで国民の理解を得たい考えだ。

だそうだ。そして「今国会での予算調整が難しい場合、今秋の臨時国会に補正予算案を提出し、年度末までの数カ月分を減額する案も浮上している。」と今年秋の臨時国会の話にまで記事の内容は飛ぶ。そして当然、「自治労や日教組の支援を受ける民主党内には地方への波及に反対する意見も根強く、調整は難航しそうだ。」と自治労や日教組の反対も忘れず、抵抗勢力は誰かを説明する。結びには「自治体側からの強い反発も予想されるだけに」と自治体の反発を加え、最後は「先行きは不透明だ。」として記事内容そのものの信憑性の低さを自ら宣言して閉じる。

一体全体この記事の冒頭の主語である「政府」とは誰を指すのか?総理か閣僚の誰かだろうか?

労働基本権が不完全な状態の我が国公務員に対して、不完全の代償として法定されているのが人事院という機関の設置とそこが行う勧告制度である。この制度下において国家公務員の賃金水準は、地方交付税のうちの地方自治体の人件費相当部分の積算の根拠となっていた。しかし今回の国家公務員のマイナス7.8%の決定は違うレベルのもの。所謂政府と職員団体の協議によって決まったもの。この協議は公務員制度改革実現後の新たな労使関係成立によって効力を持つであろう労使協議の先取り的物。いわば非公式な政労協議と言える。それも国家公務員制度改革の法案とセットでの成立を条件に職員団体側が承認したものだ。そんな国の労使による決定が地方の裁量権を奪うことは許されない。地方のことは地方が決めるべきもの。地方分権の流れをこんなことで押し戻してはならない。それが道理であり制度でもある。これは削減という不利なことだからいっているのではない。仮に有利な決定であっても、地方が上意下達で国に従わされることはあってはならないのだ。

復興財源が必要であるならば、地方6団体が集まり協議し、それぞれができることを決めれば良い。国がそうしたから地方もならえでは、何時まで経っても国の傲慢な態度も改まらないし、地方の自主自律の精神も高まらない。

先の質問に戻るが、上記のような制度だからこそ記事のような内容の方針を固める「政府」はいるはずがない。もしそんな考えを持つ閣僚や官僚がいたならば、その人物は全くもって国と地方の現行法上の権利と義務の関係を知らないことになる。

案の定、総務省も財務省も記事の内容に驚いていているという情報である。一体誰がこんな謎に満ちた記事を書いたのか、書かせたのか。さすがに産経新聞だと思うが、新聞記事に「怪」が多い最近である。

日記57  東京は寒いです。

今日は東京ですが、皇居を走ろうと思ってベランダに出ると霧のような雨が降っています。宿舎南棟の向こうにホテルニューオータニの頭が白っぽく見えます。今日は一日中家の中ですかね、この天気じゃ。どこも寒いのでしょうか?

 

より良い社会を目指して②

より良い社会を目指して①からのつづきです。「生活経済政策研究所」の機関紙「生活経済政策」の今月号の神野「新自由主義の呪縛からの解放はあるか」から
「覇権国の延命措置」その2
しかも、この1973年には石油ショックが生じている。石油ショックは第二次世界大戦後の黄金の30年と言われる高度成長に終わりを告げる晩鐘となった。というよりも、石油ショックは高度成長を推進した自然資源多消費型の重化学工業化の行き詰まりを意味していた。その結果としてスタグフレーションが生じてしまう。
福祉国家を支えた政策思想であるケインズ主義からすれば、インフレーションのもとでの経済停滞というスタグフレーション減少は説明不可能な現象であった。そこで新自由主義は、ケインズ的福祉国家を根底から批判していく。つまり、新自由主義は民営化、規制緩和、行政政策による政府介入しない「自由」な市場に社会を委ねる最小国家(the minimal state)を提唱したのである。
もっとも、新自由主義の攻撃の対象は、「個人の選択の自由」の敵である「連帯」にも向けられる。つまり、労働組合の解体へと、攻撃の焦点が絞られていく。それによる賃金と社会保障給付の引き下げで、インフレーションを抑制することが図られる。
もちろん租税負担水準を引き上げることによって、インフレーションを抑制することは、「個人の選択の自由」を掲げる新自由主義からはありえない。そりよりも所得から消費への合言葉のもとに、逆進的租税負担構造を形成することで、経済停滞から抜けだそうとしたのである。
サッチャー政権を見ると、新自由主義はインフレーションの抑制という点から言えば成果はあったといえるかもしれない。しかし、それは技術革新の推進による積極的設備投資の拡大ではなく、消極的な減量経営の結果だったのである。
重化学工業を基軸とする産業構造が行き詰まり、そうした産業構造を前提に成り立っていた福祉国家もパクス・アメリカーナも動揺している。そうした歴史的転換期に、新自由主義はイノベーションによって新しい産業構造を形成することなく、低賃金と社会保障給付の引き下げによる減量経営を推進して既存産業の生き残りを図ろうとする。つまり、既存の強者を強者として振舞わせようとする。それは既存の強者としての覇権国アメリカを維持しようとする道ともなるからである。
しかし、産業構造の転換を図らなければならないときに、産業構造を転換する方向に投資が向かわなければ、バブルが生じてしまう。産業構造を転換しなければならないときに、チューリップの球根を買いまくれば、チューリップ恐慌が生じるようなものである。
1973年に石油ショックが生じ、ブレトン・ウッズ体制が解体すると、行き場のない過剰資金が次から次へとバブルを起こしてははじけさていく。ある時は中南米へ、ある時はアジアへと、旧来型の産業に投資をしてはバブルを起こさせる。さらには本来は政府が責任を負うべき領域に、市場を創設して旧来型産業を維持しようとする。
住宅はヨーロッパの先進諸国では、公共財あるいは準公共財として扱われている。つまり、社会保障として観念されている。ところが、アメリカでは住宅はあくまでも私的財産である。そこで低所得者に持ち家を奨励し、既存産業に市場を創りだそうとした結果がサブプライムローンの悲劇である。
1929年の世界恐慌がパクス・ブリタニカの最終的崩壊を告げたように、新自由主義を旗印にバブルを繰り返しながら延命を図ってきたパクス・アメリカーナも、2008年のリーマン・ショックが開演のベルを押された世界恐慌で、最終的崩壊期を迎えようとしている。この政界恐慌はアメリカやヨーロッパのソブリンリスクと呼ばれる財政危機から、第二幕が開演しようとしている。
しかし、この危機から脱出するために、新自由主義がパクス・アメリカーナを延命する役割をはたすことはできない。新自由主義は退場するか、生き残って破局への導きを役を果たすかである。
「日本は未来を拓けるか」その1
自由を操作しながら、アメリカの覇権を延命する手段を使命とした新自由主義は、支配的政策思想としては寿命は尽きたといって良い。とはいえ、新自由主義から抜け出せないとの実感が強まるのは、寿命の尽きた新自由主義に取って代わる支配的思想が形成されていないからだといってよい。
その大きな理由は、ヨーロッパの混乱にある。つまり、新自由主義のオルタナティブとして、福祉国家の行き詰まりを覚悟した上で、雇用と福祉を重視するという福祉国家のメリットを生かしながら、新しい状況のもとで、新しきヨーロッパ社会経済モデルを追求したヨーロッパが混乱しているからである。
新自由主義がもたらすグローバル化に対応すために、国民国家を超える超国家機関を形成しながら、国民生活を補償する責務を地方政府に委譲していくというモデルをヨーロッパは採用した。そのため福祉国家の現金給付による所得再分配は、地方政府によるサービス給付による再分配へとシフトしていったのである。(より良い社会を目指して③に続きます)

労働組合よ覚醒せよ。

神野論文を読んで思う。連合を中心とした日本の労働運動は今こそ覚醒し、公正な社会、より良き社会の実現のためにエネルギーを発生すべき時だと。戦後の社会主義革命を目指した労働運動を継続したグループと、それと袂を分かち対立から労使協調路線へと舵を切ったグループとが冷戦終了のころ再度統一した。そして新自由主義の資本主義の時代となり、格差、貧困の怨嗟が世界中を被い尽くす。リーマンショック後もその流れは変わってはいない。社会主義革命を目指した労働運動はもはや日本には無い。労使協調を目指した新自由主義以前の経営陣ももはやこの国には存在しない。あるのは牙をむき出しにし、さらに富を収奪しようとする新自由主義下の「資本」や「我欲」ではないか。かつてマルクスが指摘したとおりだとの声もある。しかし、マルクス主義を掲げ建設された社会主義国家は決して人々を幸福にはしなかった。もはやその思想には大衆は戻れない。だとすれば資本主義の中にあってもっと「より良い社会」を築くという、当たり前の運動を進めるしかないのだ。しかし、それが本来の労働運動ではないか。先人の労働者が、理不尽な経営者に抵抗し、もっと働きやすい職場を、もっと食える給料をと、要求して立ち上がったときも、きっともっと「より良いもの」を目指すという単純で分かりやすく、身近な運動だったはずだ。

今年になってユーロの危機が多く喧伝される。二度の大戦の惨禍の場所であるヨーロッパの人々は、労働組合を中心とした大衆運動中で社会主義革命とは一線を引いた福祉国家の建設を目指してきた。そしてそれが実現した矢先に冷戦が終わり、パクス・ブリタニカからパクス・アメリカーナと続く覇権国の経済的支配が、新自由主義、金融資本主義の皮をかぶって襲う。ギリシャやイタリアやスペインもその煽りを被っている。さながら金融というステージの第3次世界大戦だ。しかし、ヨーロッパ統合を目指し、集まった仲間たちはこの闘いに勝利すると思う。レジスタンスとなり平和を勝ち取った人々のDNAが彼の地の政治家や経営人にも流れているし、なにより福祉国家を建設した労働運動の伝統がある。

神野さんはそんなことも論文で触れている。翻って日本は。公務員組合も電力労組も集中的批判に晒される。連合も大企業中心の正規職員の労働組合だと批判される。戦後の労働運動が辿った道は、国民大衆の想いと相容れず、現実の社会の進展とも齟齬があったのではないか。高度成長の中で大企業のサラリーマンや公務員は成長の恩恵を受けてきた。自らの集団の中での福利厚生の充実を進めることに運動を費やし、社会全体をヨーロッパのような福祉国家にするという運動には至らなかった。今の社会の労組批判はそれ故の批判ではないだろうか。

労働組合よ今こそ覚醒すべきときだ。貧困と格差の怨嗟を払いのけ、「より良い社会」の建設に向け、人々とともに政治とともに労働組合が持つ組織的エネルギーを役立てるときが来ている。労働組合とは正に大衆運動でることを実践すべきときに来ている。労働組合が国民大衆とは別次元の悪者でもあるかのような社会の誤解をとくべきときに来ている。それがなければ日本は・・・。(了)

より良い社会を目指して①

生活経済政策研究所」が、今月号の機関紙「生活経済政策」に「まだ新自由主義からぬけだせないのか」と題する特集を組んでいます。その中に、尊敬する神野直彦(東大名誉教授)さんが「新自由主義の呪縛からの解放はあるか」という題で論文を寄稿されていました。現状の世界を言い当て、3.11を経験した日本は何を基本にこれからの途を進むべきかを示唆するものです。生活経済政策研究所は決してメジャーではない研究機関(ごめんなさい)です。こんな良いことをやっている研究所なんです。そんな宣伝の意味も込めて神野論文の一部を無断転載します(お許しください)。機関紙購読に繋がれば幸いです。少々長いのでな分けて掲載します。

「新自由主義の呪縛からの解放はあるか」①( )は私が加筆した部分です。
「怒りと事前責任」の項は割愛し、「自由の操作」から。このあと「覇権国の延命措置」、「日本は未来を拓けるか」と続きます。
「自由の操作」
いかなる政治思想も、支配的政策思想として君臨しようとすれば、政策思想が人類にとっての普遍的価値を追求していると、社会の構成員に信じこませる必要がある。新自由主義ではそれは自由である。自由は人間の心を掴む。自由のためには人間は命をかけても闘う。「怒れ!」の著者であるエッセル (割愛した論文の冒頭部分に記載されている93歳のフランス人。ドゴールの呼びかけに応じてナチスと闘った戦士。彼が書いた「怒れ!」の小冊子がベストセラーになっている)も、ドゴールの呼びかけた自由フランスのために、自由の戦士として戦っている。
しかし、エッセルの自由への戦いは、ファシズムにもとづく戦争国家が奪った人間の自由を回復する戦いである。つまり、一握りの階層による独裁に対する民主主義を獲得する戦いだったのである。
ところが、同じ自由でも、新自由主義の自由は戦争国家への戦いの言葉ではなく、戦争国家を否定して形成された福祉国家への戦いの言葉である。つまり、新自由主義の自由とは、戦争国家の独裁と戦い、獲得した社会構成員による共同の意思決定に対する自由なのである。
福祉国家は戦争国家に戦いを挑んだ労働組合をはじめとして、国民大衆が手中にした民主主義を基盤にしているが故に、所得再分配国家として形成された。新自由主義は自由の名のもとに、労働組合と、財政による所得再分配を攻撃する。それは新自由主義における自由は、「社会構成員の共同の意思決定」を否定する「個人の選択の自由」だからである。
この「個人の選択の自由」は、市場における選択の自由とアナロジーで想定されている。市場には購買力に応じて、決定権を行使する。購買力の豊かな富裕者には多くの決定権が、購買力の乏しい貧者には僅かな決定権が配分されることになる。つまり、新自由主義の「個人の選択の自由」とは事実上、「強者の選択の自由」なのである。
新自由主義は強者の論理にもとづいている。そのため市場に、政府が介入することを、自由の名のもとに否定する。しかし、市場は政府が強制力でルールを設定しなければ動かない。新自由主義が否定する政府の介入とは、社会の構成員の共同意思決定にもとづいた市場ルールのことをいっているにすぎない。つまり、新自由主義の唱える市場のルールは、強者の都合の良いように、強者が決定したルールなのである。
とはいえ、新自由主義の政策思想が支配的政策思想として君臨した重要な理由は、自由という人類にとって普遍的価値を操作したからである。しかし、それが民主主義とは相容れないことは、すでに見ぬかれている。
世界中で巻き起こっている反貧困・反格差の運動では、民主主義つまりデモクラシーとは、デモスつまり民衆が、クラシーつまり権力を握っているというはずなのに、現在では権力を1%の富裕者が掌握していると抗議している。反貧困・反格差の運動は、人民に決定権限を与えよという民主主義の運動でもあるのだ。

「覇権国の延命措置」その1
新自由主義が「自由」という普遍的価値を操作しているというよりも、新自由主義がアメリカという覇権国が派遣を維持するための手段として促迫しているが故に、支配的政策思想として君臨しているのかもしれない。それは2つの「9.11」に象徴される。
第一の「9.11」は、チリの大統領サルバドール・アジェンデが惨殺された1973年の9月11日である。アジェンデ大統領を惨殺したピノチェトは。独裁政権を確立するや否や、「シカゴ・ボーイズ」と呼ばれた新自由主義者を政権に引きこんで、新自由主義の政策を遂行している。これが新自由主義が世界史の表舞台に登場した瞬間である。
第二の「9.11」は、2001年9月11日にニューヨークの天空で起きた航空機を使用したテロ事件である。この事件を口実にアメリカはイラクへの軍事力を証拠もなしに行使し、イラク政府に新自由主義政策を強要していくことになる。
覇権国アメリカが強要する新自由主義が、陰に陽にインパクトを世界に与えていく。もちろん、それはアメリカの覇権、つまり「パクス・アメリカーナ」を維持するためである。
第一の「9.11」が発生した1973年は、「パクス・アメリカーナ」を支えたブレントン・ウッズ体制が最終的に崩壊した年でもある。つまりブレトン・ウッズ体制の固定為替相場制が変動為替相場制へ転換した年なのである。(より良い社会を目指して②に続く)